« 椀 | メイン | サンスクリットのアスラ(asura) »

ヤクブ・ベクの乱

ヤクブ・ベクの乱は、清末の1860年代から1870年代にかけて、東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)をめぐる戦争。ムスリムの蜂起の結果、ヤクブ・ベクによって東トルキスタンは統一されたが、最終的にヤクブ・ベクは清の左宗棠に敗れた。

東トルキスタン情勢 [編集]
東トルキスタンが清朝の支配下にはいって1世紀がたった1860年代の段階で、東トルキスタンは3つの路に分かれて統治されていた。1つは天山北路でイリ地方を管轄していた。もう1つは天山南路で8つの都市を管轄していた。すなわち西のホータン、ヤルカンド、イェンギサール、カシュガル、東のウシュトゥルファン、アクス、クチャ、カラシャールである。そして東路はウルムチ周辺を管轄していた。イリ将軍は恵遠城に駐箚し、3路の軍を統括していた。さらに天山北路の民政を直接担当し、天山南路の民政も地元のベグを通じて行っていた。しかし東路の民政に関しては甘粛省の管轄下にあった。

1820年代のジャハーンギール・ホージャや1857年のワリー・ハンのようにカシュガルからコーカンド・ハン国に逃れた白山党(アーファーキーヤ)の宗教指導者(ホージャ)の侵攻が繰り返されたため、東トルキスタンには5万の兵が配置されていた。軍は満州人と漢人の部隊から成り立っており、後者には陝西省・甘粛省の回族も大きなウェイトを占めていた。清軍の大部分はイリ地方の9つの砦に配置されたが、同時にほとんどの都市にも配置されていた。これらの軍隊を維持するための費用は地元からの税だけでは足りず、中央政府から補助金を受け取っていた。しかしながら中央政府の援助は太平天国の乱やその他の反乱の鎮圧のために滞るようになった。そのためイリ将軍は税を上げて、官職を売りに出すようになった。新しく官吏になった者は民衆から搾取することでその出資を取り戻したのである。清の失政とそれを助長するベグ、ホージャの侵攻、増税と汚職などにより、東トルキスタンの人々の不満は高まっていった。

1862年に陝西省と甘粛省で回民蜂起が発生すると、東トルキスタンの回族の間に清朝は自分たちに対する虐殺の準備を始めているとの噂が広がった。したがってウイグル人・キルギス人・カザフ人のようなトルコ系民族も蜂起に参加したが、まず口火を切ったのは回族だった。

反乱の発生 [編集]
最初の反乱は小さなものだった。1863年3月17日に虐殺の噂に刺激された水定鎮近郊の三道河の回民200人がイリ地方の9つの砦の一つである塔勒奇城を攻撃した。彼らは武器を奪って守備兵を殺害したが、他の砦の軍によって破られ殺害された。翌年に再び反乱がおこった。これは3路で同時に発生し、イリ将軍の能力を超えたものであった。

1864年6月3日から4日にかけての夜にクチャの回民が蜂起し、すぐにトルコ系住民も加わった。清の砦は数日で陥落し、千人の漢人兵と150人のモンゴル兵が死亡した。東トルキスタンの他の都市とは違い、町の外部ではなく内部に砦があったからである。回民とウイグル人の主導権争いの結果、蜂起には参加していなかったもののムスリムの共同体でスーフィーとして権威をもっていたラシッディーン・ホージャを指導者に選出した。彼は3年にわたって東西に勢力を拡大し、タリム盆地全体に支配権を確立しようと試みたが、その企図はヤクブ・ベクによって阻まれることになる。

クチャの蜂起の3週間後に東路でも蜂起が発生した。6月26日にウルムチの回族の兵士が反乱を起こしたのである。指導者は、甘粛省出身でスーフィズムの一派であるジャフリーヤの指導者(アホン)の妥得璘と、回民に好意的であった参将の索焕章であった。都市の大部分は破壊され、清の要塞は包囲された。蜂起軍は西へ向かい、現在の昌吉回族自治州に入り、9月16日にマナスを陥落させ、29日にウスを陥落させた。続いて10月3日にウルムチの要塞が落ちた。清の守将は火薬庫を爆発させて自殺した。妥得璘は清真王と称した。

満州人が自分たちを殺害しようとしていることを察知したヤルカンドの回族の兵士たちは、6月26日に蜂起した。街の外部にあった清の砦に対する最初の攻撃は失敗したが、2千人の清の兵士たちが死亡した。午前中に蜂起軍は市内に入り、7千人の漢人が殺害された。回族の兵士の数はわずかであったが、多くのトルコ系住民が参加した。彼らは形式上の指導者にカーブルの名家の出身であるグラーム・フセインを選んだ。

初秋には天山北路のイリ盆地でもマナスとウスの陥落の報を受けて、弾圧を受けることを恐れた回民たちが蜂起した。イリ将軍の常清は地元の住民から腐敗した圧政者として憎まれていたが、ウスの陥落後に解任されて明緒に代わった。明緒は回民と交渉しようとしたが徒労に終わった。11月10日に商業の中心地であるグルジャと軍事・政治の中心地の恵遠城の両方で蜂起があり、ウイグル人も加わった。やがてムスリムのカザフ人とキルギス人も加わる一方で、仏教徒のカルムイク人とシボ族は清朝の側についた。グルジャは回民とウイグル人の手に落ちたが、恵遠城の清軍は12日に渡る市街戦の末に蜂起軍を撃退した。漢人たちは清軍の勝利を見て、清軍に協力するようになった。しかし清軍の反撃は失敗し、大砲を奪われ、明緒はかろうじて捕縛を免れた。アクスとウスの陥落で恵遠城の清軍は孤立し、明緒が北京と連絡を取るにはロシアを経由せざるを得なかった。恵遠城の清軍は12月12日の攻撃を撃退することに成功したが、反乱はジュンガリアの北部に広がった。カザフ人たちはかつてこの地を支配していたカルムイク人に復讐を遂げた。

1865年正月、タルバガタイ地区の回民指導者たちは相互の平和を誓うためにチョチェクのモスクに清の役人とカルムイクの貴族たちを招待した。しかし彼らがモスクに到着すると、回民たちは武器庫を占拠して彼らを殺害した。2日間の戦闘の後、ムスリムがチョチェクの支配権を確立し、清軍の要塞は包囲された。しかし、カルムイク人の支援で清軍は秋までにタルバガタイ地区を奪回し、回民たちは逆にモスクに閉じ込められた。戦闘の結果、チョチェクは完全に破壊され、住民は難民となった。

清朝は反乱の鎮圧のためにロシア帝国に援助を求めた。しかしロシアの態度は曖昧だった。駐清公使のウランガリは要請を完全に拒絶することは露清関係に悪影響をもたらすと報告した。一方で中央アジアに駐屯する将軍たちはもし蜂起が成功してムスリム国家が成立した場合、清を援助することは新たな隣国との関係によくないと考えた。結局、ロシアは清軍のシベリア通過と恵遠城の守備隊への穀物の売却を認めたが、それ以上の援助は行わないと決定した。ロシアにとっての最優先事項は清との国境を維持し、反乱がロシア国内に波及することを防ぐことにあった。1865年2月、セミレチエ州駐屯軍のゲラシム・コラパコフスキーは攻撃は最大の防御と考え、国境を越えて東トルキスタンを植民地とすべきと主張したが、外務大臣のアレクサンドル・ゴルチャコフはそのような違反行為を行えば清が反乱を回復した際に悪影響を及ぼすとして却下した。

その間、清軍にとって情勢は悪化していった。1865年4月、恵寧城が蜂起軍の手に落ち、満州人・シボ族・エヴェンキからなる8千人の守備隊は虐殺された。恵遠城の大部分は1866年1月8日までに蜂起軍の手に落ちた。食糧が尽きた明緒は降伏を申し出た。明緒は銀と茶を供出することで、生命と清朝への忠誠の維持の保障を得ようとした。しかし蜂起軍はムスリムへの忠誠を要求したため、明緒は交渉を打ち切らざるを得なかった。3月3日、城砦に蜂起軍が侵入し、明緒は邸宅を爆破して家族や部下とともに自殺した。こうしてイリ地方は清朝の手から離れた。

ぺぱーみ メンメン ソング バンブ チミン シーザー キックサニ カエデ キンロバイ ナンバー マリンバ ディー ハードコア トース ジョーク タンブラ ナイアガ ラック セリン ブラック セルラ オルガ マスト ピタヤ ビンテー センシ ワサビ えんおう キセル ニューマ ふきのとう ブルーマ シェイ プランター 暮し百科 ザック エンド マート ニューロン ダーシズン 雪しぐれ ガボン ぴってろ ミケー デソ プデ レーナー レット ピーコック トレーサ


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.reclig.info/blog/mt-tb.cgi/1189

About

2009年04月14日 11:43に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「」です。

次の投稿は「サンスクリットのアスラ(asura)」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35